平和の礎(へいわのいしじ)
「礎」は、「いしずえ」と読みますが、あえて沖縄の言葉で「いしじ」とそのまま発音しています。それは、沖縄県南部の糸満市にある平和記念公園にあります。
沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設する。(沖縄 県営平和祈念公園公式サイトより)
私が初めてここを訪れたのは、26歳の時(2001年)。その際の話はコチラ。
その時に私を案内してくれたタクシーの運転手さんの話が忘れられません。
「おれさぁ、何年か前に空港からまっすぐここまでお客さんを乗せてきてわけさ。おばあさんがひとりでさ、息子の名前を探しに来たわけよ。一緒に探してさ、名前を見つけた途端にそこでうずくまって泣いてしまってさ、そのまま1時間近く泣いていたわけ。夏の日差しがじりじり暑くて、俺の背中に汗がダラダラ、びしょびしょ。おれもさ、戦時中の生まれでおふくろと多分同じくらいの人だから、もう切なくてさ、どうしていいかわからなくてずっと後ろで待ってたよ」
忘れられない話がもうひとつ。それから2,3年経って、北海道の実家にいた時のこと。たまたま母の知り合いがうちに来ていて、「私の母の弟もね、沖縄で戦死しているのよ。」というので、「え?苗字は?何から始まる?」と聞きました。「や。山川よ。」。「あ、じゃあ、私が撮った写真に名前があると思う。」と言って私は部屋から写真を持ってきました。私の大叔父は「山本」。その山川さんとは同じ町内出身なので、もしかしたらと思ったのです。そしたらその人が「本当だ!あった!」と言うのです。「その写真、お母さんに持って行っていいよ。私はネガがあるから。」と言って渡しました。律儀なその人は、「ネガを貸して。私が焼き増ししてくるから」と言って帰りました。翌日ネガを返しに来たその人は、「ありがとう。昨日ね、まっすぐ写真屋さんに行って現像してもらったの。母に見せた瞬間に泣いて泣いて大変だったわ。」と言いました。
ここでも、私にとってはとうの昔の「歴史」だけど、実は今もなお「終わっていない現実」であるのだということを感じました。
こういう話は決して珍しいことではないのだろうと思います。戦争中、国民のだれもがまるで映画の主人公のように生き延びていくなかで「大切な人」を失ったのではないでしょうか。
「平和の礎」が建設されたのは、1995年。戦後50年を迎えてからです。そこに遺骨があるわけでもないのに、それでも家族がそこへ来て名前を手でなぞり、いつまでも涙する人が多くいるのにはどんな理由があるのでしょうか。おそらく、「大切な人の存在意義」を証明してもらったという気持ちがあるのではないでしょうか。「大切な人」は、たしかにここに存在し、そして沖縄戦の犠牲になった一人に違いないのだと。
この礎には、国籍を問わず全ての人の名前が刻まれています。そして驚くことに、今になってもまだ毎年新たに名前が書き足されているのです。戦後80年近く経った今日まで、沖縄戦の犠牲になった事実さえも誰にも知られないまま命を落としていった人がいるのです。まだ知られていない命が、いつかここに一人残らず存在事実を証明してもらえることを心から願います。
ここには、敵として命を失った米兵などの名前も刻まれています。その数12,000人以上。「大切な人」を沖縄で亡くした悲しみは、たとえ戦勝国であるアメリカ人にとっても同じであると思います。「人を一番殺しているのは人」。この悲しい真実を、いつか覆すことはできるのでしょうか。私にできることは何もないかも知れません。でも、たった一人にでも平和の尊さを教えることはあきらめたくないと思います。
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