沖縄慰霊の日 ~私も大叔父を悼む~
今日6月23日は、沖縄慰霊の日です。
沖縄戦において、当時の司令官牛島満中将が自決し(実際には前日に自決という説も有り)組織的戦闘が終了した日と言われています。沖縄の人にとっては戦争で亡くなった先人たちを慰霊するとともに、平和の有難さを再確認し平和を訴える日でもあるかと思います。
実は沖縄戦で犠牲になった人の数は、沖縄県民の次に北海道民が多いのです。
私の祖母の弟もその一人でした。
戦死の知らせと共に届いたのは、石ころひとつだったと祖母から聞いています。大叔父は未だに沖縄のどこかに眠っています。この事実こそが、私の平和教育に向き合っている原点といえます。
私の祖母は、時々その弟のことを思い出して話してくれました。でも、当時の私にとっては明治末期に生まれた祖母の話など歴史の教科書と同じくらい遠い過去の話で、全く実感が湧きませんでした。
そんな私の考えが変わったのは、26歳の時にたまたま一人で訪れた沖縄での出来事でした。就職氷河期だったこともあり、たいした目標もなく25歳までフラフラしたあげく特に考えもせず航空自衛隊に入隊していました。それでもなんとか3ヶ月の厳しい訓練に耐えた後、航空管制官の勉強中に16連休という長期休暇をもらえました。その休暇で、これまた目的もなく沖縄をプラプラしようとそこへ向かったのです。
到着してすぐにタクシーに乗ってホテルまで向かう途中、旅の予定は何も決まってないと伝えたところ、「それじゃあ、このまま今日は貸し切りで観光タクシーにしないか」と運転手さんが言うので軽くその話に乗りました。私は運転手さんに「前回沖縄に来た時には中部の海で遊んだだけだったから、今回は戦跡巡りをしたい」と希望を言いました。何となく、自衛官として来た以上は見ておくべきかなと思ったからです。車中で「私のおばあちゃんの弟がね、沖縄で戦死してるらしいんだよ」と言ったところ、「それなら平和の礎に名前があるはずよ」というのです。恥ずかしながら、私はそんな平和祈念公園の存在も知らなかったし遠い存在の大叔父についてもさほど関心はなかったのですが、せっかく運転手さんが言ってくれてるので実家に電話を入れて名前を確認。そのまま糸満市へ向かいました。運転手さんは親切にも車を降りて広い公園内を歩いて一緒に名前を探してくれました。
平和の礎は、各都道府県別にあいうえお順で記名されています。
「北海道・渡島支庁」というところにその名前はありました。
「本当にあるんだ!」と心底驚きました。私にとって祖母の話は遠い過去のものだったし、どこか作り話のように現実味を全く感じられいことだったからです。でも、間違いなく名前はありました。私の大叔父が、確かに56年前に、遠く北海道からこの地にやって来て戦っていたんだ。そして死んだのだ。
今の私の年じゃないか!?
そんな若くして、ここで命尽きたのか・・・ 4月の晴れ渡った青空のもと、私は自分の自衛隊での訓練と大叔父の戦争で戦う姿を重ねて初めて涙を流しました。
戦死していった叔父のこと、既に亡くなっていた祖母の想い、未だに沖縄には行けないと言っていた祖母の妹の気持ち・・・そんなすべてが初めて自分の感情に突き刺さってきました。それはすべて本当にあったことなんだ。そのことだけは胸に刻まなければいけないなと感じました。
そのあとそこでタクシーの運転手さんから聞いた話や、次に訪れたひめゆり平和祈念資料館で聞いたお話などから、わたしも平和への願いをつないでいく一員であろうと思いました。
たかが個人経営の学習塾で毎年卒業時に沖縄まで連れていくのは、私の平和教育に対する強い信念があるからです。
毎年、沖縄旅行での最終日には「私からの遺言」を伝えています。これから先、何があっても「生きろ」、「親より先には死ぬな」ということ、そして「平和は当たり前」ではないことなど、くわしいことは最後まで勉強を頑張り抜いて沖縄に卒業旅行に行った人しか聞けません(笑)
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